5月28日(木)中国新聞で「女子教育に尽くした生涯と情熱」で紹介された、鹿児島県出身の豊留アサが新庄女学校で教師・校長として多大な功績を上げた道のりは、想像以上に過酷なものであった。その経緯と情熱は・・・

明治42年(1909年)人口わずか2000人余りの山村の小さな村旧新庄村(現北広島町新庄)に新庄女学校が地元有志によって設立された。当時の田舎はまだまだ封建的で尋常小学校から高等小学校への進学率すら30~40%で、女子に教育が必要なのかとの風潮があった時代に、こんな片田舎に女学校を作ることはどの様にすれば可能だったのだろうと思う。新庄学園史によれば、設立の前年明治41年に地元の戦国武将木川元春公が正三位を授かり、その生きた記念として女学校設立の提案があり、女子の教育の必要性や地域の活力の創造のためにも女学校が必要であると、地元の数十名の有志が出資し、女学校設立が決まった。しかし、女学校の設立を県に相談するも、そんな田舎でしかも教師も学校のめども立っていないこともあって、全く相手にしてもらえなかったのだそうであるが、元新庄村の龍山八幡神社の宮司で政府の教務部教導職長官も務めた国学者三上一彦氏(当時は広島饒津神社社司)校主・校長兼任を依頼し快諾される。三上氏は当時日本の最先端の女子教育を行っていた日本女子大学創立者の成瀬仁蔵氏に許氏の派遣を依頼し、成瀬氏は卒業式間近の講義終わりに広島の山村に女学校ができること、その学校に教師が必要なことを告げ、卒業生の中に行く者はいないかと問うた。すぐに一人手を挙げたのが豊留アサだった。かくして設立したばかりで、校舎も教材もない田舎の女学校に赴任することとなった、29歳であった。その後、想像を絶する労苦が待ち受けていることを覚悟していたかのように
「この田舎で私立学校を経営することは難事中の難事であるが、皆様と心をあわせて一心にやればできないということはないと思います。この豊留アサは今日から新庄で生まれと思ってください。そして有志の一人と思ってください。それから命がけでやりましょう」と着任してすぐの歓迎の宴席で述べ、一同感激したと、女学校設立の声を上げた地元の武田収三氏はのちに語っているそうである。
こうして豊留アサの新庄女学校の教師として、そして2年後からは校長として格闘が始まり、昭和13年(1938年)に58歳で亡くなるまで、新庄女学校で教え続けのちに新庄学園となる新庄女学校で新庄(旧大朝町とその周辺)の女子の近代化や文化度の向上が、ひいては大朝の寛容の風土・文化にまでに大きな影響を与えたのではないかと私は想像する。
この豊留アサが大叔母に当たるメクストメディア アーティスト柿元幸子さんがこの度、新庄女学校ななくしては語れない豊留アサの人生をまとめた私制本を発表された。明治から昭和初期に小さな山村で女子教育に一生をささげた女史の人生や思い。そして姪孫である柿本さんの大叔母への誇りと愛情を感じていただけると思います。
ウエブサイトでも読めるので、ぜひ一読を・・・5月
〇おおあさ暮らしの情報は
htmx.process($el));"
hx-trigger="click"
hx-target="#hx-like-count-post-245325120"
hx-vals='{"url":"https:\/\/mizunosato.exblog.jp\/245325120\/","__csrf_value":"de0f778aa87d87034d2e88332c3d8c55064e0e7bdea206bcf4228b78155a490f78fea798d80a2fa11014d135e37347b1ab99113b4a6e79009258bd461ce88cdc"}'
role="button"
class="xbg-like-btn-icon">