おおあさ文化祭の展示場に、「ALWAYS 三丁目の夕日」の時代の大朝のジオラマが展示された。3丁目ならぬ2丁目だが、まさに昭和30年代、西暦1960年代の大朝の中心部。鉄道もないのに国鉄の大朝駅があって、周辺には旅館や自動車販売店、呉服屋やお菓子屋さんに映画館、パチンコ、貸本屋さんにタクシー会社、医院などが軒を連ねて、にぎやかな商店街を形成していた。今では想像できない風景である。作ったのは大朝在住で、国鉄(現JR)のバスの運転手をしていた三浦さんと言う名物爺さん(失礼)。風景はもちろん、すでにどの建物もバスも存在していないので、古い資料を探したり記憶をたどっての作業だったらしいが、出てきたのはわずか3枚の解像度の低い白黒写真と、国鉄関係のバスの資料におぼろげな近隣の住民の記憶。そのわずかな資料を基に、協力者の記憶と突き合わせながら色や形、瓦一枚一枚の数、駅や旅館の内部まで再現。資料探しからいうと1年以上かけて制作。懐かしい風景が出来上がった。文化祭の展示場にはニュースで聞きつけたジオラマファンや住民の多くが訪れた。素晴らしい出来栄えにみんな感動。50年前を思い出して昔話で盛り上がっていた。大朝文化祭は明日6日までなので、見る機会は少ないかもしれませんが、その後、展示場所を北広島町千代田の中央公民館に変えてしばらく展示されるとのことなので、ぜひ見ていただきたいと思う。
本物の町のようです。
グリーンの建物が大朝駅。左隣が木造3階建ての山正旅館。屋根瓦は山陰から県北特有の柿色の瓦。
一番奥が、見学者に説明する三浦さん。ちなみに、国鉄の大朝駅は、場所を移動してわさ~るマ~トの前にJR大朝駅として新しく建てられている。当然鉄道はない。今でもバス専門の駅である。50年前の当時は、広島市と島根県の浜田市や江津市を結ぶほぼ中間に位置し、人や物資の中継駅としてにぎわっていた。駅は、木造平屋であったが待合室や切符売り場に売店、貨物取扱窓口、駅の裏にはバス数台が入庫できる車庫に乗務員や駅員の官舎もあって、鉄道は無くても立派に駅として機能していた。隣の山正旅館は大正時代に完成した木造3階建て。新聞の販売店や食堂も併設し、いつも主のお爺さんが玄関隣の部屋で、火鉢の前でお茶を飲んでいた。中継地のためにいろいろな商人が訪れ、冬は、広島県のスキーの草創期からある寒曳スキー場の客でにぎわっていた。大朝駅と山正旅館は、ある意味大朝の繁栄を見守った2つの建物なのである。
とんがり屋根が印象的なコンパクトでかわいい現在の大朝駅。
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