大朝には広島県と島根県の県境、昔は浜田藩と芸州藩の国境(くにざかい)が3カ所あって三坂峠に、中三坂峠、下三坂峠が国境であった。現在は三坂峠と中三坂峠は昔の名称と同じだが、下三坂だけは亀谷峠に名前が変わっている。三坂峠は島根県浜田市、中三坂峠は江津市、亀谷峠は石見銀山方面への街道であった。三坂峠は広島市と浜田市を結ぶ主要道として早くから整備されたが、雪の多い場所で、バスが雪崩に巻き込まれたり。通行止めになることもしばしだったために、峠の頂上付近には雪崩から道路を守るトンネル状のスノーシェルターが設置された。昔の街道の面影はなくなったが交通がマヒすることもなくなった。それでも一部には旧街道の名残の石畳道や街道の石垣も残っている。江津へ抜ける中三坂峠は国道264号線となり、何度も改修が行われトンネルも2度掘られ直されるなど、峠自体が穏やかなものになっている。亀谷峠(下三坂峠)は道幅こそ広がっているが昔のままで、今でも峠の頂上には国境の碑が建っている。
難所の峠などにはよく伝説などが伝わっているが、三坂峠にも藩政時代の国境であったゆえの悲恋伝説が残っている。
【お蓮勘兵衛の悲恋伝説】話の概要は以下の通り。
江戸時代の浜田藩の下役人同心の家の若嫁「お蓮」は使用人勘兵ヱと人目を忍ぶ恋仲になった。藩政時代、不義はご法度。発覚すれば死罪。領外へ二人は駆け落ちした。当時は領外に出れば藩の法は適用されませんので、無罪放免になります。浜田から一番近い藩の境は安芸の国。市木峠(三坂峠)を超えて大朝の大塚まで逃げることが出来たが追っ手に捕まった。本来ならもう追っ手に捕まえる権利もないのだが、「とにかく一旦帰れば二人を晴れて夫婦と認める」との甘言に騙されて、峠の関所まで連れ戻され、その場で切り殺されてしっまた。その亡骸は関所そばの峠沿いに葬られたのだそうである。恋愛も離婚も再婚も不倫もなんでもあれの今の時代から考えると考えられない、不義とはいえ、悲しい物語である。
現在峠のスノーシェルターを島根県に抜け、100メートルあまり行った先の道路そばにお連勘兵ヱの墓が立っている。新緑も濃くなってきた5月。誰が供えたのか花立には花が供えられている。ちなみに、トンネル風のスノーシェルターのほぼ真ん中には頼山陽の書による国境の碑が立っている。
▲広島県側
▲島根県側
▲お連勘兵ヱの墓
▲国境の碑
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